
あらすじ
毎朝同じ時間の地下鉄で、彩花は静かに一人の男性を見つめていた。美術を専攻する無口な大学生の彼女にとって、白い杖を持つその人は最高のスケッチモデルだった。ある日、大学近くの古書店で偶然再会した二人。拓海と名乗ったその男性は音楽大学のピアノ科の学生で、視覚障害を抱えていた。しかし彼には特別な能力があった——指先で彩花の絵を「読む」ことができたのだ。AR技術が日常に溶け込んだ近未来の世界で、紙の本と手描きの絵が希少価値を持つ時代。二人は古書店『時の栞』で出会いを重ね、異なる感覚の世界を教え合う。拓海は彩花に音の豊かさを、彩花は拓海に色彩の美しさを伝えようとする。しかし言葉では限界があった。やがて彩花は、最新技術を駆使した特別な作品を制作する——拓海の世界に初めて「色」を届けるために。見ることと聞くこと、触れることと感じること。互いの世界を理解し合う過程で芽生える静かで深い愛情。技術と芸術、現代と古典が交差する世界で紡がれる、新しい形の恋愛物語。
朝の地下鉄のホームは、いつものように静寂の中に人波が流れていた。七時二十分発の電車を待つ人々の列に、彩花は自然に身を寄せる。スケッチブックを胸に抱えながら、無意識に三両目の扉前を探す。そこに、白い杖の彼がいる。迷いのない手つき、朝の光が作る陰影。彩花は心の中でシャッターを切る。
電車が到着し、彼は迷いなく乗り込む。彩花は少し離れた席へ。この距離感が心地よかった。見つめることはできても、見つめられることはない。彼は静かな朝の風景の一部だった。
授業後、彩花は古書店『時の栞』へ。昭和初期の面影を残す店内には紙の本だけが並び、店主の田中は「紙には魂が宿る」と言う。デジタルが日常の時代、手描きの線は希少な温度を帯びていた。彩花は印象派の画集を探す。モネの光で、あの横顔をもっと深く描きたかった。
画集を手にした時、本が落ちる音。白い杖の男性が膝をつき、本を手探りで集めている。彩花は駆け寄った。
「あの、お手伝いします」
顔を上げた彼は、毎朝の彼だった。焦点を結ばない瞳に不思議な輝きがある。
「ありがとうございます」
拾い集めた本は『点字の世界』『触覚による芸術鑑賞』『音で描く風景』。
「もしかして、毎朝七時二十分の電車に乗られていませんか?」
「はい、でも、どうして…」
「香りです。油彩と鉛筆、少しのターペンタイン。同じ香りと息づかいが、いつも同じ位置から」
その日から二人は言葉を交わす。音大でピアノを学ぶ拓海にとって『時の栞』は特別な場所だった。
「ページの厚み、紙の質感、印刷の凹凸——全部が情報なんです」
やがて拓海が言う。
「あなたの絵を、触らせてもらえませんか?」
彩花は逡巡ののち、ホームのスケッチを渡す。拓海の指が紙面をゆっくり辿る。
「美しい。あなたの線は音楽みたいだ。リズムとメロディーがある」
季節は移ろい、二人は互いの世界を教え合う。
「雨は落ちる場所で音色が変わる。コンクリートは乾いて、木の葉は柔らかい。君の髪に落ちる音は、とても優しい」
「青は冷たくて深い…海の底みたいな静寂があって…」
「触らせてください。あなたの手を」
彩花は拓海の指を自分の手に重ね、空に線を描く動きを伝える。横線、縦線、カーブ——拓海は目を閉じて記憶に刻む。
だがある日から拓海は姿を見せなくなる。地下鉄にも『時の栞』にも。田中は「少し体調を崩されたようで」とだけ。色を失った日々の中、彩花のスケッチには拓海ばかりが増えた。
三週間後、音大から響くピアノ。悲しく美しい旋律は拓海のものだった。翌日、彩花は大きな封筒を抱え、練習室の扉を叩く。
「拓海さん。お渡ししたいものがあります」
封筒の中身は、これまでのスケッチと特別な新作。最新のARと触覚フィードバックを組み合わせ、色を触覚と音に変換する作品だ。
「これは…?」
「あなたのために作りました。触ってください」
拓海の指先に、青は冷たい振動、赤は温かな振動として伝わる。同時に線の動きがメロディーとなって流れる。朝のホーム、電車の音、人の足音、二人の息づかいが、音と触感で立ち上がる。
「見える…いや、感じられる。あなたの絵が」
「音楽と絵は同じ——そう教えてくれたのはあなた。だから、あなたの世界に色を届けたかった」
「なぜ、ここまで…?」
「あなたを愛しているから」
「僕も、あなたを愛しています。あなたは僕の世界を明るくした」
拓海の指が彩花の頬を辿る。額、頬、鼻、唇——絵を読むときのように丁寧で、やさしい。
一年後、二人は視覚障害者のための芸術鑑賞システムを立ち上げる。彩花の絵、拓海の音楽、最先端のAR。『時の栞』は拠点となり、田中はスペースを提供した。
七時二十分の地下鉄では、今も隣り合って座る二人。彩花は朝の景色を描写し、拓海はその日の音の世界を語る。異なる感覚が重なり、世界は豊かに広がっていく。
彩花は連作を完成させた。出会いから現在までを描き、すべてにARを組み込む。展示室には多くの人が訪れ、目を閉じて触れ、聴き、言葉を超えて理解した。
彩花は悟る。求めていたのは技術でも名声でもなく、誰かと深く繋がること。拓海との出会いが、その答えだった。
桜が舞う夕暮れ、二人はキャンパスを歩く。
「花びらの舞う音が聞こえますか?」
「……聞こえます。とても美しい音です」
「あなたといると、僕の世界は広がる。見えないものが、こんなにも豊かだなんて」
「私も、聞こえないものがこんなに深いなんて知りませんでした」
彩花は新しいスケッチを始める。技術と芸術、感覚と感情が調和する未来。朝の地下鉄で芽生えた静かな恋は、今や多くの人に希望を与える大きな愛へと成長していた。
〜完〜