人との関わりにおいて「つい見返りを求めてしまうのは間違っているのだろうか」と悩む人は少なくありません。愛情や思いやりは純粋な贈与のように思われがちですが、人は誰もが感情を持ち、努力に対して何らかの反応を期待してしまう存在です。そのため「正解は一つ」とは断じられません。本稿では、恋愛における「尽くす」と「見返り」の関係について整理し、健全な関係を築くための考え方を提示します。
利他的と利己的の関係性
「利他的」「利己的」という言葉は対立するもののように思われますが、実際には切り離せません。例えば家族のために懸命に働く母親が、自分の体を犠牲にしてまで尽くした結果、健康を害してしまったとしたらどうでしょう。その「利他」が必ずしも家族の幸せに直結するとは限りません。逆に、一見「自分のため」に思える選択が、長期的には家族や周囲を守ることにつながる場合もあります。利他と利己は表裏一体であり、循環の中で結びついているのです。
「相手のため」が自分のためになることもある
筆者自身の経験でも、結婚生活において「相手のため」と思って尽くしていたことが、実は「自分が良い妻でありたい」という欲求を満たすためだったと気づいたのは離婚後でした。夫の借金や転職を受け入れることは優しさに見えて、問題を先送りしていただけでした。本当に相手を思うなら、時には厳しく「その行動は間違っている」と伝えることも必要だったのです。「与える行為」は必ずしも純粋な利他ではなく、自己満足と隣り合わせになることがあります。
愛は循環してこそ意味を持つ
「これだけ尽くしたのだから、同じだけの愛を返してほしい」と考えると誤解が生じます。愛情は保証されるものではなく、自ら差し出すものです。しかし全く何も返ってこなければ心は疲弊します。大切なのは「リアルタイムで同じ量を返してほしい」と望まないことです。愛は時間をかけて循環します。今すぐの見返りがなくても、長期的に関係が育まれることで報われる可能性があるのです。
見返りを求めることは「練習中」と考える
恋愛や夫婦関係は「見返りを求めない愛」を学ぶ練習の場と捉えることができます。人は成長の過程でさまざまな形の愛を体験しますが、その最たるものは子育てです。子どもに注ぐ愛は一方通行であり、そこから「無償の愛」を学びます。その前段階として大人同士の関係で「尽くす」「求める」を繰り返し、バランスを整えていくのです。「つい見返りを期待してしまう自分」を否定する必要はなく、それは自然な学びの過程だと言えるでしょう。
選択の責任を意識する
恋愛や結婚において最も重要なのは「自分で選んだ責任を引き受ける覚悟」です。その人を恋人に選んだ責任、その人と結婚した責任、その職場を選んだ責任。選択は常に自分に帰属します。「気づいてくれない相手」を選んだのも自分であり、その責任を理解できれば、相手を責めたり過剰に見返りを求めたりする気持ちは薄れていきます。最初の選択こそが大切であり、労力や時間を投資する価値がある相手かどうかを慎重に見極める必要があります。
結果が伴わないときの受け止め方
尽くした努力が報われないとき、それは「選択を誤った」と潔く受け止めることも必要です。恋愛なら「愛情」として、仕事なら「報酬」として成果が戻ってこなければ、自分の判断が間違っていた可能性があります。その認識を持てれば、無駄な怒りや虚しさにとらわれずにすみます。与えることと求めることのバランスを見直し、選択の責任を意識することで、より健全な関係を築けるのです。
結び
恋愛における「尽くす」と「見返り」の関係は、単純な正解を持ちません。ただ一つ言えるのは、与えることと求めることのバランスを整え、選択の責任を自覚することが、安心して続けられる関係を築く鍵になるということです。愛情は押し付けるものではなく、分かち合うものです。その意識を持つことで、自然体で心地よい関係を育み、互いに信頼を深めていくことができるでしょう。